回復期リハビリ病棟の原点(1) ~手をかけて良くする~

ごあいさつ

西広島リハビリテーション病院
病院長
岡本 隆嗣
はじめまして!このブログは患者さん、ご家族の方、一般の方、そして職員にも、 当病院のことをもっと身近に感じていただきたいという思いで作りました。 日々の出来事の中で私が思ったことをつづっていきたいと思います。
先日「広島県回復期リハビリテーションの会」設立の会が開催されました。設立記念講演には、回復期リハビリ協会の前々会長の石川誠先生に来て頂きました。石川先生は回復期リハ病棟の創設に尽力をされましたが、先生が医師になられた昭和50年代は今と違って「リハビリテーション」という言葉も一般的でなく、療法士も非常に少ない時代でした。
脳外科医だった石川先生が当時勤めていた虎ノ門病院の分院は、本院脳外科で手術した患者を速やかに受け取り、PT・OT・ST・MSWらのスタッフも相当数が配置されて総合的なリハを行い、出来るだけ良好な状態で自宅へ帰そうとする優れたシステムを持っていました。そこには、殴る、蹴る、唾を吐きかける、大声を出す、徘徊する、ナースコールを1分おきにならすなど、手がかかる患者さんも入院されていました。当時は付き添い看護の時代でしたが、家族に頼ることはなく、入院当日に全ての患者さんに看護計画が立案され、経過とともにそれが頻回に修正され、自立支援のための本当の看護が実践されていたそうです(「夢にかけた男たち ある地域リハの軌跡」三輪書店 参照)。後の「ケア10項目宣言」は、この虎ノ門時代の経験が基になっているのだと思います。そして急性期に密着した「回復期リハビリ」の構想を持ち、昭和61年に高知の近森病院に赴任されました。
一方、整形外科医だった当法人の前理事長は、手術後の患者さんが寝たきりになる現実に直面していました。リハビリテーションを受けるためには、遠く別府・道後・三朝・熱海などの温泉地に行くしかありませんでした。昭和52年に筋電図の国際学会があり、小児麻痺による車いす生活だった自分の恩師を連れて行く機会がありました。オランダ・フランス・英国をその車いすを押して廻ってきました。障がい者に対してどの国も方も非常に親切で、またさりげない手助けができる教育をされており、石畳の街も階段もレストランでも劇場でもロンドンの2階建てバスでさえ、何も不自由に感じなかったことに感銘を受けて帰ったそうです。「障がい者が堂々とバリアだらけの街に出て普通に暮らしている。大切なのは障がい者を取り囲む社会の人達の啓蒙であり教育である。」と広島市内に都市型のリハビリテーション病院を作りたいと熱望するようになりました。
 昭和61年に当院が開設されました。足がふらつく薬をやめ、点滴を外し、食事は食堂に連れて行き、トイレへ連れて行き、お風呂に入れる。今でこそ「寝たきり(廃用症候群)を防ごう」と当たり前になっていますが、当時ベッド上での食事や排泄しか経験したことのない看護師は「しんどい」と次々に辞めていきました。手をかければかけるほど病院への医療費の収入(薬、点滴、注射、検査)が無くなり、手探りでの苦しい運営が続きました。しかし、リハビリについて話や相談が出来る相手もおらず、本当に大変な時代でした。
丁度その頃、家族旅行で高知まで行くことがあり、偶然に出来たばかりの近森リハ病院を見つけました。前理事長はそれまでどの病院を見学しても「何か違う・・・」と言っていましたが、自分の理想が形になっている病院を見つけ、興奮しながら広島まで運転して帰ってきたのを覚えています。
 その後、正式に見学を申し込み、お互い学生時代のラグビー部の宿敵同士であったことが分かり、すぐに意気投合しました。リハビリの病院施設協会の仕事の後、よく一緒に朝まで酒を飲んだと、石川先生が懐かしそうに語っておられました
その後のことは、次回お話ししたいと思います