自分が成長するために・・・(2)
ごあいさつ

病院長
前回は、女子100mハードル(100mH)の寺田明日香さんが、ラグビー転向を経て再び陸上に復帰し、19年間誰も破れなかった“13秒の壁”をついに突破したところまでお話しました。今回はその続きです。
寺田さんは、23歳での引退、結婚・出産後のラグビーへの転向、陸上競技への復帰、13秒の壁突破、東京五輪での準決勝進出など、何度も世間を驚かせました。しかも、6年半も競技から離れ、他競技への転向もあったにもかかわらず、陸上第一期の記録を上回っただけでなく、復帰してすぐに長年破られなかった“13秒の壁”を突破しました。女子アスリートは出産したら第一線で活躍するのは難しい― そのような言説を、鮮やかに飛び越えたのです。
寺田さんが日本記録を出して以降、日本女子100mHの記録が急激に伸びた理由について、同じハードル競技を專門にしていた為末大さんが、寺田さんとの対談の中で、次のような面白い解説をしていました。
「ハードルに関してはリズムの競技で、言わばドラムを叩いている感じなんですね。“ダダッ・ダダッ”と、大体13秒というのはこういう叩き方なんだって皆が覚えていたら、ある日別のドラマーが来て“ダダダッ・ダダダッ”とかやって『これなら12秒台が出るぞ』と皆が目にしたら再現できるので、それで走れるようになる。周りが一回そのリズムで走るのを目にしたのが大きい。寺田さんに関してはラグビーに行ってから違うリズム感が身に付いた感じがします。また、上半身が大きくなって足音が“ドン・ドン・ドン”のように明らかに変わりました。重たいものが速く動く感じになったのでしょう。」
確かにラグビーは、上半身でぶつかるための強い筋力が必要であり、相手を抜く時のステップにはリズムも求められます。寺田さん自身も、「結果的にラグビーで追い込んでいたのが良かったのでしょうね。陸上に復帰するという概念が無かったので、固定観念にとらわれず、フィットネス系や有酸素トレーニングをガシガシやっていたのが身体の土台づくりにつながったのかな」と分析しています。同じ12秒台ハードラーで、今回の織田記念陸上で優勝した田中佑美選手も、冬場に上半身、特に広背筋と前鋸筋を重点的に強化し、「ちょっと大きくなったと思いませんか?」と報道陣にアピールする様子が記事に出ていました。
寺田さんはタイムを伸ばすために、意図してラグビーに転向したり、上半身を鍛えたりしたわけではありません。目の前のことに懸命に取り組んだ結果として、それが今まで不可能と思われていた限界を突破する大きな力になりました。
寺田さんは先の対談の中で、次のように語っています。
「最初の頃は『前にどう速く進むか』ということに特化した練習しか考えていなかった。しかし後ろに進む、横に進む、止まるなど、一見自分には無駄に思えそうなことも、結果的には前に進む推進力が生まれる身体の使い方を覚えられる要素にもなった。今の自分には無駄だよなって思っていることも、実際やってみるとそうじゃないことがある。これはスポーツの練習だけではなく、例えば勉強などにも当てはまるのではないか。やってみたら物事の見え方が違ってくることがあるように思う。」
目の前の壁を乗り越えるために、目標に向かって根気強く努力し続ける姿勢はとても重要です。しかし、成長の方法はそれだけではありません。異なることに挑戦することで、以前越えられなかった“壁”を突破できることもあります。私には、寺田さんの歩みがそのことを教えてくれているように思えました。
立場や境遇が変われば、私たちの目標も変わっていきます。学生であれば学業や部活動、社会人であれば仕事などを通して、「自分自身が成長する」ことこそ、どの立場においても大切なテーマではないでしょうか。寺田さんを一番近くでサポートしてきた夫の佐藤峻一さんは、「ラグビーに挑戦したことが、トレーニング方法や走り方だけでなく、妻の性格や思考を変え、アスリートとしてだけでなく、人としても成長する契機になった」と振り返っています。
新年度が始まってしばらく経ち、新しい環境や仕事内容にまだ慣れず、戸惑いやストレスを感じている人もおられるでしょう。たとえ今は「自分には向いていない」と感じることや、遠回りに思える経験であっても、将来、以前は越えられなかった“壁”を破る力になるかもしれません。
目の前の課題に懸命に取り組むことは、目に見える成果を出すためだけでなく、長い目で見れば、人として成長するための大切な機会にもなるのではないかと思います。
